陶磁器
破天荒な生涯を生きた上口愚朗2017/02/27

眼鏡を逆さにかけ、ストローで茶を飲み、自らを「愚朗天宿(グロテスク)」から「愚朗(ぐろう)」と名乗る男、上口愚朗。破天荒な生き方を貫いた上口愚朗は明治25年、台東区谷中に生まれました。高等小学校卒業後は宮内庁御用達の大谷洋服店に勤務し、英国式の製法技術を学びました。26歳の時に「上口中等洋服店」の看板を掲げ、英国の最高級服地を直輸入し、英国式で縫製しました。「中等」というのは愚朗の諧謔で、実際は値段も超高級、しかし「値段はきいてくれるな」というワンマンぶりにも関わらず、丁寧な仕上がりが評判を呼び、たちまち人気店へと成長しました。
昭和初期は洋服屋としての絶頂期で、洋服屋で稼いだ金で日本や中国の古陶磁を収集、なかでも和時計には深い関心を示し、この世を去ったあとに「和時計博物館」が建てられるほど和時計を蒐集しました。
昭和13年、愚朗は縁あって川喜田半泥子の元を訪ね、1週間滞在するうちにすっかり作陶に魅了されました。そんな中、太平洋戦争によって洋服店は廃業、元々趣味であった作陶を本格的に始めるため、窯を築いて作陶に没頭しました。
当時の愚弄の作風は、日本の伝統的な茶碗の忠実な復元と、自ら「野獣派陶盌」と名付ける独創的な茶碗の2本立てでした。はじめは中々世に受け入れられなかった「野獣派陶盌」も、次第にその自由で奔放な作風に人々が魅了されるようになりました。
「法無陶盌(ホーブトウエン)」ともいい、20世紀初頭の絵画運動の名称で、強烈な色彩が特徴のフォーヴィズムを陶器に取り入れての名称です。「陶芸は先ず茶碗から始まる」として、個性的で創造的な形の茶碗の制作に励みました。
木版画家の棟方志功も「上口中等洋服店」によく足を運んだ顧客の一人でした。無頼派同志でウマが合ったのか、家族ぐるみの付き合いが生涯続きました。
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