人間国宝
歌人としても活躍 鋳金界の重鎮 香取秀真2017/09/18

「あづさゆみ はるとしるかに鉢植の 梅花もたす 芽をふきにけり」
正岡子規の門下で短歌を学び、隣人の芥川龍之介からは「お隣の先生」と呼ばれる異色の鋳金家、香取秀真。上の歌は春の到来をおのずと知る梅の花を情緒豊かに歌ったもので、工芸家でありながらも短歌や古代に造詣の深い文化人としての香取秀真の一面を伺い知ることができます。
抱いていました。理由はいくつかあり、一つは5歳で千葉県佐倉の麻賀多神社の宮司の養子となり、風習や行事など伝統的なものを常に身近に感じていた事。もう一つは青年期まで過ごした佐倉には遺跡や古い寺院が多く、仏像を間近でみる機会に恵まれた事。そして佐倉集成学校に在学中に和歌に出会い自らも和歌を作るようになったことです。
卒業の翌年は佐倉市の旅館の娘たまと結婚し翌年長男香取正彦が誕生。秀真24歳の時でした。その後もパリ万国博覧会など多数の展覧会で受賞するなど、華々しく活躍。しかし、若くして家族と弟子達を抱えた生活は実際には苦しく、極貧生活に耐えかねた妻が帰郷してしまう事態にまで見舞われてしまいました。それでも秀真は日本・中国の鋳金史の研究・制作を続け、1933年に東京美術学校教授となり、40年もの間、母校で「鋳金史」や「彫金史」の講義を続けました。その間、制作の方でも技術を高め、1934年帝室技芸員となり、1953年には美術工芸家として初となる文化勲章を受章しました。
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