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コラムコラム

刀剣・刀装品

“四谷正宗”と称せられた刀工!新選組の近藤勇も愛刀にした?【源清磨】2022/10/04

古刀五箇伝のハイブリッド!源清麿が生んだ刀剣の特徴


清麿の作刀品の魅力は、澄んだ地鉄の柔らかさと刃文の躍動感と言えます。
源清麿の作刀品は、水心子正秀・大慶直胤と並び「江戸三作」に数えられたほどの銘刀でした。

清麿は同時代を生きた水心子正秀らと同様に、新々刀の第一人者として活動。そのため作刀品の多くには、古刀(平安や鎌倉時代)の特徴が滲み出ています。
清麿が最初に師事した上田藩士・河村寿隆(かわむらとしたか)は、備前伝の得意とする刀工でした。
そのため、清麿の信州時代の作刀品には備前伝の色彩が色濃く反映。丁子乱れの刃文が確認されています。

江戸に出ると、清麿の作刀にも幅が出てきました。
このとき、清麿は南北朝時代の美濃伝の影響を受けて作刀。志津兼氏(しづかねうじ)の作風を目指していました。一方で相州伝にも触れることで、独自の様式を確立。古色豊かな作刀品を残しています。
さらに長州の萩時代になると作風が一変。華やかな丁子の刃文と、備前一文字のような匂出来(においでき)が現れます。

特筆すべきは、やはり江戸に帰還後の作刀品です。
嘉永2(1849)年の作刀品は、地肌は板目流れ。刃文は腰の開いた互いの目乱れでした。
ルーツの備前伝に相州伝、そして美濃伝が加わったことで「四谷正宗」と呼ばれるに相応しい傑出した作品が生まれています。

刀工源清磨の生涯


源清麿はどのような人生を送ったのでしょうか

文化10年(1813)、のちの源清麿は信濃国小諸藩の郷士・山浦昌友の次男として生を受けました。初名は山浦内蔵助環(やまうらくらのすけたまき)です。作刀においては、長兄・真雄が影響を与えていました。真雄は上田藩の御用鍛治・河村寿隆に鍛刀を学び、清麿にも教えています。しかし地方の郷士にとって、作刀は生活には結びつきません。清麿は大石村の郷士・長岡家に婿入りして結婚。一男をもうけて暮らしていました。ところが若い清麿は作刀への情熱を忘れられません。思い余って妻子を置いて江戸へ出てしまいました。まだ20歳という若さです。

天保5(1834)年、清麿は江戸で幕府旗本・窪田清音(くぼたすがね)と出会います。兵法家でもある窪田は、自邸内に鍛冶場を築いて後援を得た清麿は刀工として技を磨いていきました。天保13(1842)年、やがて清麿は長門国萩へ下向。藩政改革を担う村田清風に招かれ、鍛刀を行うこととなります。しかし萩も清麿にとって満足できる土地ではありませんでした。
天保15(1844)年8月には郷里の小諸に帰り、次いで江戸に帰還。四谷に鍛冶場を構えます。
弘化3(1846)年には、作刀品に「清麿」の銘を刻印。相州伝と肥前伝を会得し、独自の様式を確立して「四谷正宗」と通称されていました。

順風満帆な刀工としての人生でしたが、清麿の人生は最期のときを迎えます。
嘉永7(1855)年11月14日、清麿は四谷の自宅で自刃。享年42という若さでの死でした。自刃の理由については諸説あり、今も謎を孕んでいます。

清麿は窪田清音を裏切って長州藩へ逃亡した?


清麿のエピソードの中では、特に窪田清音との関係が注目されます。
天保10(1839)年、清麿は窪田の協力によって、武器講で鍛刀する機会を与えられました。
一振り3両で武器講の加入者に刀を100振り打つ仕事です。利用者からすれば破格ですが、清麿からすれば負担が大きな仕事だったかも知れません。清麿は仕事に取り掛かり、一振り目を見事に完成。しかしそこでで江戸を去ってしまいます。

これまで定説では、清麿が窪田のもと預かった金を持って逃げたと言われてきました。実際は違う事情があるようです。
当時の窪田家は経済的に困窮しており、清麿が出されたという説が出されています。
また長州藩の村田清風に招かれたため、作刀に及んだという事情も組み合わさっていました。

新選組局長・近藤勇の「長曽祢虎徹」の作者は、実は源清麿だった?


「今宵の虎徹はよく切れる」とは、講談等で新選組局長・近藤勇が放つ決め台詞として用いられます。
近藤は新選組を率いて京都で治安維持活動に従事し、佐幕派の代表的な人物の一人として活躍した人物です。
池田屋事件で近藤が振るった刀は長曽祢虎徹だった、と言われてきました。果たして本当にそうだったのでしょうか。
実は近藤の佩刀は、長曽祢虎徹ではなく源清麿だったという説が近年有力視されています。

長曽祢虎徹という刀について少し触れてみます。
虎徹は、御試御用(おためしごよう:刀剣の試し切り役)・山田浅右衛門吉睦(五代目)によって「最上大業物」に指定された刀剣です。
山田は罪人の死体を使って試し切りを実行。虎徹を使うと、重ねた死体の胴体だけでなく土台呉と両断したと伝わります。
凄まじい切れ味から虎徹は名刀として名を馳せ、贋作が多く出回る結果を招きました。
実際に「虎徹を見たら偽物と思え」と言われ、虎徹自身も何度も銘を変えて作刀したほどです。

では近藤勇と長曽祢虎徹の出会いはどこで生まれたのでしょうか。
元来、近藤勇は江戸の小さな町道場・試衛館の道場主でした。一説によると、近藤は江戸の刀屋によって偽造品をつかまされたといいます。京都に上る際、近藤は刀屋に長曽祢虎徹を求めました。しかし刀屋は長曽祢虎徹を入手できず、源清麿の銘を切り直して、近藤に渡したというのです。

近藤の「長曽祢虎徹(とされる刀)」が贋作という話は、実際に身近で目撃した人間からも出ています。
池田屋事件の後、研磨師・源竜斎俊永が新選組隊士の刀の修理を担当。俊永は「近藤先生の刀は出来上々だが偽物なり」との記載を残しています。

つまり近藤勇の佩刀は長曽祢虎徹ではなかったと専門家である研磨師が発言した事実がありました。しかし一方で「出来上々」との記載から、名のある刀に銘を切り直した説が有効になるのです。切れ味は上々だったようで、近藤は江戸の養父・近藤周斎に「下拙の刀は虎徹故に哉(か)、無事に御座候」と書き送っています。

主要な参考文献

『江戸の日本刀ー新刀、新々刀の歴史的背景』 伊藤三平 東洋書院 2016

『日本刀は素敵』 渡邉妙子 ワック株式会社 2016

『物語で読む日本の刀剣150』 かみゆ歴史編集部 株式会社イースト・プレス 2015

主要な参考サイト
「生誕200年記念清麿展」 佐野美術館HP

「山浦清麿作「刀」(木村家)」 上田市マルチメディア情報センターHP


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