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刀剣・刀装品

賤ヶ岳七本槍とは誰?メンバー一覧と各武将の功績・その後の運命2026/07/16

賤ヶ岳七本槍とは誰?

賤ヶ岳七本槍とは、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が天下統一への道を切り開いた「賤ヶ岳の戦い」で、めざましい武功を挙げた7人の若き武将たちの総称です。

彼らは秀吉の子飼いとして知られ、その後の豊臣政権を支える重要な存在となりました。
この記事では、七本槍のメンバー一覧からそれぞれの功績、そして彼らがたどった激動の生涯までを詳しく解説します。

賤ヶ岳の七本槍とは?秀吉の天下取りを支えた若武者たち


賤ヶ岳七本槍(しずがたけのしちほんやり)とは、1583年に起きた賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉軍の勝利に大きく貢献したとされる7人の武将を指します。一番槍の功名を立てた福島正則や、後に名将として知られる加藤清正など、秀吉が若手の頃から育て上げた子飼いの武将たちが中心でした。彼らの活躍は秀吉の天下取りにおける重要な一歩となり、その武勇は後世まで語り継がれています。


羽柴秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」


賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変で織田信長が亡くなった後、その後継者の座を巡って羽柴秀吉と筆頭家老の柴田勝家が対立したことで勃発しました。
当初は膠着状態が続きましたが、秀吉が敵方の砦を陥落させたことを機に戦況が大きく動きます。
秀吉自らが率いる本隊が驚異的な速さで戦場に駆けつけた「美濃大返し」により、柴田軍は総崩れとなりました。

この戦いでの勝利が、秀吉の天下統一事業を決定づけることになります。
七本槍の武将たちは、この最終局面での追撃戦で大きな手柄を立てました。


戦で大手柄を立てた秀吉子飼いの7人の武将の総称


賤ヶ岳七本槍の武将とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7名です。
彼らの多くは近江国(現在の滋賀県)の出身で、幼少期から秀吉に仕えた直属の家臣でした。

賤ヶ岳の戦いにおける活躍を秀吉に高く評価され、それぞれが領地や石高の加増を受けました。
この戦いをきっかけに、彼らは豊臣政権下で大名へと出世していく足がかりを掴んだのです。

賤ヶ岳の七本槍に名を連ねた7人のメンバーと戦功


賤ヶ岳七本槍とは誰?

賤ヶ岳の戦いにおいて「七本槍」と称された7人の武将は、それぞれが勇猛果敢な働きを見せました。
ここでは、各メンバーの名前と、彼らが具体的にどのような戦功を挙げたのかを一人ずつ紹介します。


福島正則(ふくしま まさのり):一番槍として敵将・拝郷家嘉を討ち取る


福島正則は、賤ヶ岳の戦いで最も武功を挙げた「一番槍」として知られています。
彼は敵将である拝郷家嘉を討ち取るという大手柄を立てました。
この功績により、秀吉から5,000石の加増を受け、七本槍の中でも筆頭の評価を得ました。

正則のこの活躍は、彼の武勇を象徴するエピソードとして有名です。


加藤清正(かとう きよまさ):敵将・山路正国を討ち取り武名をとどろかせる


加藤清正は、福島正則と並び称される猛将です。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍の武将・山路正国を討ち取り、その武名を天下にとどろかせました。
この戦功によって3,000石の加増を受け、後の肥後熊本藩主へと続く出世の道を切り開きました。

彼の武勇は、この戦いを契機に広く知られるようになります。


加藤嘉明(かとう よしあき):優れた武功により3,000石の加増を勝ち取る


加藤嘉明もまた、賤ヶ岳の戦いで目覚ましい働きを見せた武将の一人です。敵将を討ち取ったという明確な記録は他の武将に比べて少ないものの、秀吉の本陣近くで奮戦し、その優れた武功が認められました。戦後、その功績によって賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、天正14年(1586年)には淡路国の志智城主として1万5千石の所領を与えられ、着実にその地位を向上させていきました。


脇坂安治(わきざか やすはる):柴田勝政の家臣を討ち取る活躍を見せる


脇坂安治は、賤ヶ岳の戦いにおいて福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられました。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説もあります。
もともと浅井長政に仕えていましたが、浅井氏滅亡後は織田信長に属し、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てました。 その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣となり、山崎の戦いの後に行われた賤ヶ岳の戦いで武功を挙げました。
戦後、脇坂安治は山城国に3,000石の加増を受けました。 その後、加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐や小田原征伐などに従軍しました。


平野長泰(ひらの ながやす):敵の首級を挙げ3,000石の所領を得る


平野長泰は、賤ヶ岳の戦いにおいて敵の首級を挙げるという確かな功績を立てました。
この働きが秀吉に認められ、戦後には3,000石の所領を与えられています。

彼は他の七本槍のメンバーとは異なり、生涯大名になることはありませんでしたが、武勇に優れた武将として評価されていました。


糟屋武則(かすや たけのり):柴田勝家の宿老・宿屋長利を討ち取る


糟屋武則は播磨国で別所氏に仕えていましたが、羽柴秀吉による播磨攻めの際に黒田孝高の推薦で秀吉に仕えるようになりました。賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門を討ち取る武功を挙げました。この功績により3,000石の加増を受け、その後の豊臣政権において重要な役割を担うことになります。


片桐且元(かたぎり かつもと):一番槍を争うほどの勇猛さで3,000石を得る


片桐且元は賤ヶ岳の戦いで活躍した武将の一人で、その功績により3,000石の領地を与えられました。豊臣家の奉行として行政手腕も発揮するなど、実務官僚型の武将として文武に優れた人物でした。

七本槍の評価は誇張?秀吉の演出と数えられなかった武将たち


賤ヶ岳七本槍とは誰?

「賤ヶ岳七本槍」という名称は、彼らの武功を称える輝かしい響きを持っています。
しかし、賤ヶ岳七本槍とは、単なる功労者のリストではなく、豊臣秀吉による巧みな政治的演出の側面も持っていました。
また、実際には7人以外にも手柄を立てた武将が存在したことも指摘されています。


若手武将を売り出すための秀吉による巧みなプロモーション


秀吉が「七本槍」というキャッチーな呼称を用いて彼らを顕彰したのは、自らが育てた若手武将たちの存在を世に広くアピールする狙いがありました。
賤ヶ岳七本槍の武将たちの武勇伝を広めることで、豊臣政権の軍事的な基盤が強固であることを内外に示し、家臣団の士気を高める効果を狙ったのです。
これは、メディアを巧みに利用した秀吉ならではのプロモーション戦略だったと言えます。


記録上は7人以上?七本槍に選ばれなかった他の功労者


賤ヶ岳の戦いで手柄を立てたのは、七本槍の7人だけではありませんでした。
石川一光や桜井佐吉といった武将たちも同様に一番槍の功名を立てたとされています。
しかし、彼らは七本槍には数えられませんでした。

選考の基準は必ずしも明確ではなく、秀吉との関係性や将来性などが考慮された可能性も考えられます。

豊臣家臣から徳川へ、七本槍それぞれの激動の生涯と末路


賤ヶ岳七本槍とは誰?

賤ヶ岳の戦いで名を挙げた七本槍ですが、彼らの生涯は決して平坦なものではありませんでした。
豊臣秀吉の死後、豊臣家内部の対立が激化し、彼らは大きな決断を迫られます。

その後の関ヶ原の戦いや江戸時代の到来を経て、彼らの運命は大きく分かれていきました。


豊臣子飼いの武将はなぜ分裂したのか?関ヶ原の戦いでの決断


秀吉の死後、豊臣政権は石田三成ら行政を担う文治派と、加藤清正や福島正則ら戦場で功を立てた武断派の間で対立が深刻化しました。
武断派の武将たちは三成への反発から徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いではその多くが東軍に味方しました。
豊臣恩顧の将でありながら徳川についた背景には、こうした豊臣家内部の根深い対立があったのです。


加藤清正と福島正則が迎えた改易という悲運


加藤清正と福島正則は、関ヶ原の戦いで東軍として活躍し、それぞれ肥後52万石、安芸広島49万石の大大名となりました。
しかし、豊臣家への恩義を忘れなかった彼らは、江戸幕府から次第に警戒されるようになります。

清正は早世しましたが、正則は幕府の定めた法度に違反したとして、最終的に領地を大幅に減らされ、改易という悲運の末路をたどりました。


江戸時代も大名として家名を存続させた脇坂安治と加藤嘉明


一方で、脇坂安治と加藤嘉明は、江戸時代も大名として家名を存続させることに成功しました。
脇坂安治は関ヶ原の戦いで巧みに立ち回り、徳川方として功績を挙げました。

加藤嘉明も家康からの信頼が厚く、最終的には会津40万石の大名となります。
彼らは時代の流れを読み、新しい支配体制の中で生き残る道を選びました。


豊臣家に忠義を尽くした片桐且元と不遇の晩年を送った糟屋武則


片桐且元は、豊臣秀頼の傅役として豊臣家に忠義を尽くしましたが、大坂の陣では徳川家との和平交渉に奔走するも、両家の板挟みとなり苦悩しました。
最終的には豊臣家を離れることになります。
一方、糟屋武則は関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易され所領を没収されました。

その後は不遇の晩年を送ったとされています。


唯一大名にならず旗本として幕府に仕えた平野長泰


平野長泰は七本槍の中で唯一、大名になることなくキャリアを終えた人物です。
賤ヶ岳の戦い以降も各地の戦に参加しましたが、加増は少なく、最終的には5,000石の旗本として徳川幕府に仕えました。
大名にならなかった理由は定かではありませんが、堅実に家名を存続させ、その家系は明治維新まで続きました。

武勇だけではない七本槍の素顔とゆかりの品々


賤ヶ岳の七本槍は、戦場での勇猛さで知られますが、その素顔は武勇一辺倒ではありませんでした。
彼らの多くは茶の湯などの文化的な活動にも親しんでおり、また、彼らが使用したとされる刀剣や甲冑は、今なお歴史的遺産として大切に受け継がれています。


多くの武将が嗜んだ茶の湯と文化人としての一面


戦国武将にとって茶の湯は、単なる趣味ではなく、政治的な社交の場としても重要な意味を持っていました。賤ヶ岳七本槍の武将たちも例外ではなく、特に片桐且元は茶の湯に深い素養があったとされています。彼らが武勇だけでなく、こうした文化的な教養も身につけていたことは、当時の武士の多面的な姿を物語っています。


徳川美術館などで鑑賞できる刀剣や甲冑などの遺産


賤ヶ岳の七本槍に数えられる武将ゆかりの刀剣や甲冑の一部は、現在でも博物館や美術館で鑑賞することができます。例えば、重要文化財に指定されている短刀「物吉貞宗」は徳川美術館に所蔵されています。これらの遺品は、七本槍が生きた時代の息吹を現代に伝え、彼らの存在をより身近に感じさせてくれる貴重な文化財です。

賤ヶ岳 七本 槍に関するよくある質問


ここでは、賤ヶ岳の七本槍について多くの人が抱く疑問に答えていきます。
メンバーの覚え方から、誰が最も出世したのか、そして古戦場の現在について、簡潔に解説します。

Q1:賤ヶ岳の七本槍を覚えるための語呂合わせはありますか?


A:はい、いくつか語呂合わせが存在します。
代表的なものは、各武将の名字の頭文字をとった「かかふくわかひらかた」(加藤、加藤、福島、脇坂、糟屋、平野、片桐)です。
この順番で覚えることで、7人のメンバーを効率的に記憶することができます。

Q2:七本槍の中で最終的に最も出世したのは誰ですか?


A:最終的な石高で判断すると、加藤嘉明が最も出世したと言えます。
彼は江戸時代に会津40万石の大名となりました。
ただし、戦国時代における知名度や影響力では、熊本52万石の大名となった加藤清正や広島49万石の福島正則も引けを取りません。

Q3:賤ヶ岳の古戦場跡地へは現在でも行けますか?


A:はい、現在でも訪れることができます。
滋賀県長浜市にある賤ヶ岳古戦場跡地は、リフトで山頂まで登ることが可能です。
山頂には七本槍の武将たちの碑や像が建てられており、琵琶湖や余呉湖を一望できる絶景スポットとしても知られています。

まとめ


賤ヶ岳七本槍とは、豊臣秀吉の天下取りの過程で大きな功績を挙げた7人の若武者たちのことであり、彼らの活躍は戦国史における象徴的な出来事の一つです。
しかし、その後の彼らの人生は、関ヶ原の戦いを境に分裂し、ある者は大名として家名を存続させ、ある者は改易の悲運に見舞われるなど、多様な末路をたどりました。
彼らの栄光と苦難に満ちた生涯は、戦国という時代の激しさと複雑さを今に伝えています。

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